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              戰國與希臘:中西方文明根性之比較(中日)

              2020-12-07重要概念范疇表述外譯發(fā)布平臺

              戰國與希臘:中西方文明根性之比較

              戦國時(shí)代とギリシャ: 中國と西洋の文明の根源の比較

              中央社會(huì )主義學(xué)院黨組書(shū)記、第一副院長(cháng)潘岳

              中央社會(huì )主義學(xué)院黨グループ書(shū)記、第一副院長(cháng)潘岳

              導讀

              百年未有之大變局下,中國和西方又一次站在了解彼此的十字路口。在文明層面,雙方的了解卻遠遠不夠,甚至存在誤解。那么,中西文明的“根性”究竟有何不同?

              中央社會(huì )主義學(xué)院黨組書(shū)記、第一副院長(cháng)潘岳認為,戰國和古希臘在同時(shí)期相似的歷史條件下,出現了不同的歷史結果。二者都面臨紛爭戰亂,而后也都出現了由軍事強大的邊緣國家所主導的統一運動(dòng),但希臘終未真正統一,而戰國卻走向了大一統的秦漢時(shí)代,且整整延續兩千余年。他認為,希臘古典文明和中華古典文明各成體系、互有分殊,最重要的就是統與分的不同根性,以及由此塑造的兩種不同道路:西方走向分,其間雖有統一努力(如羅馬、基督教),但以分為主,最終歸于個(gè)人主義和自由主義。中國走向合,其間也有分離時(shí)期(如王朝更替、游牧民族沖擊),但以合為主,造就了集體主義。

              這種不同,演變?yōu)楫斀駮r(shí)代的突出矛盾:是“自由優(yōu)先”還是“秩序優(yōu)先”?潘岳認為,問(wèn) 題不是在自由和秩序中二選一,而是在哪個(gè)環(huán)節加強自由,在哪個(gè)環(huán)節加強秩序,從而既防止瓦解、又激活創(chuàng )新。

              今天,中國和西方又一次站在理解彼此的十字路口。

              現代文明中蘊含著(zhù)古典文明的精神基因。歐美和古希臘古羅馬文明;伊斯蘭世界和阿拉伯文明;伊朗與波斯文明;俄羅斯和東正教文明;以色列和猶太文明。種種關(guān)系連著(zhù)種種基因演化成種種道路。

              現代歐美文明認為自己的政治秩序,是融合古希臘文明、古羅馬文明、基督教文明和工業(yè)文明的精髓為一體。其中,古希臘文明是源中之源。現代中國的道路,建立在中華文明的遺產(chǎn)之上。中華文明的穩固形態(tài)確立于秦漢,演變之關(guān)鍵處在戰國。

              從公元前五世紀到三世紀,戰國與古希臘面臨著(zhù)相似的歷史境地。都陷入了內部極度戰亂;戰亂中都出現了統一運動(dòng);統一運動(dòng)的積極力量都不是核心圈國家,而是軍事強大的邊緣國家;大批知識分子為統一運動(dòng)上下奔走,提出了大量哲學(xué)、政治、道德命題。

              而統一運動(dòng)的結果不同。希臘形成了亞歷山大帝國,僅7年即分裂,其后三大繼承者王國內 斗100年,被羅馬逐一兼并。戰國形成了大一統秦王朝,雖14年后崩潰,但很快就再次興起了大一統漢王朝。秦漢制度被歷代王朝所繼承,整整延續2000余年。

              相似的歷史條件下出現的不同結果,這因為不同的文明根性。

              総説

              百年ぶりの大きな変化の下で、中國と西洋は再び相互理解の岐路に立つようになった。文明の面において、雙方の理解はまだまだ不十分であり、誤解さえある。では、中國文明と西洋文明の「本質(zhì)」は結局どう違うのだろうか。

              中央社會(huì )主義學(xué)院黨グループ書(shū)記、第一副院長(cháng)の潘岳氏は、同時(shí)期の似通った歴史的條件の下で、戦國時(shí)代と古代ギリシャには異なる歴史的結果がもたらされたと考えている。両者は共に紛爭と戦亂に直面し、その後軍事力の強い周辺國主導での統一運働も起こったが、結局ギリシャでは本格的な統一には至らず、戦國時(shí)代は大一統の秦?漢時(shí)代に向かい、しかもそれは二千年余りも続いた。彼はギリシャ古典文明と中華古典文明が各自のシステムを形成しており、互いに違いがあるものの、最も重要なのは統一と分割における異なった根源的な性質(zhì)、およびそれによって形成された二つの異なる道であると考えている。西洋は分裂の道に向かい、その過(guò)程においては統一に向けた取り組み(ローマ、キリスト教など)もあったが、主には分裂狀態(tài)が続き、最終的には個(gè)人主義と自由主義に向かった。中國は統一に向かい、その過(guò)程においては分離の時(shí)期(例えば王朝の交代、遊牧民族による攻撃)もあったが、やはり統一を主として、集団主義を形成した。

              このような違いは、「自由優(yōu)先」なのか「秩序優(yōu)先」なのかという現代の矛盾を浮き彫りにした。その課題は自由と秩序の中での二者択一ではなく、どの段階で自由を強化し、どの段階で秩序を強化するかによって、崩壊を防止し、革新を活性化させるかということだと潘岳氏は考えている。

              今日、中國と西洋は再び相互理解の岐路に立っている。

              現代文明には古代文明の精神的遺伝子が含まれている。歐米と古代ギリシャ?ローマ文明、イスラム世界とアラブ文明、イランとペルシア文明、ロシアと東方正教文明、イスラエルとユダヤ文明。様々な関係は様々な遺伝子と繋がり、様々な道を作り出した。

              現代の歐米文明は自分達の政治秩序が古代ギリシャ文明、古代ローマ文明、キリスト教文明、産業(yè)文明の真髄を融合したと考えている。その中でも、最も根源的なのは古代ギリシャ文明である。現代の中國の道は、中華文明の遺産の上に作られたものである。中華文明の堅固な形態(tài)は秦?漢時(shí)代に確立されたもので、その進(jìn)化のポイントとなる時(shí)期は戦國時(shí)代である。

              紀元前5~3世紀、戦國時(shí)代は古代ギリシャと似たような歴史的狀況にあった。どちらも極めて深刻な國內の戦亂の時(shí)期に入っており、戦亂の中で統一の動(dòng)きが起こった。また統一運動(dòng)の積極的な勢力は中核國ではなく、軍事力の強い周辺國であった。多くの知識人が統一運動(dòng)のために奔走し、大量の哲學(xué)?政治?道徳の命題を提起した。

              しかし、統一運動(dòng)の結果は異なっていた。ギリシャではアレクサンドロス大王の帝國が形成されたが、わずか7年で分裂し、その後は三大継承王國の100年にわたる內戦が続き、ローマに一つずつ呑み込まれていった。一方、戦國時(shí)代は大一統(全國統一)の秦王朝を形成し、14年後に崩壊したが、すぐに再び大一統の漢王朝が興った。秦?漢の制度は歴代王朝に受け継がれ、2000年余り続いた。

              似たような歴史的條件の下で異なる結果がもたらされたのは、文明の本質(zhì)的な性質(zhì)が異なっていたからだ。

              戰國:從分立到大一統

              (一)被誤讀的“百家爭鳴”

              1975年12月,湖北云夢(mèng)出土了書(shū)滿(mǎn)秦法的“睡虎地秦簡(jiǎn)”。在一堆法家書(shū)簡(jiǎn)中竟發(fā)現一篇充滿(mǎn)儒家精神的官吏培訓教材《為吏之道》:“寬俗忠信,悔過(guò)勿重,和平勿怨,慈下勿陵,敬上勿犯,聽(tīng)諫勿塞”。這并非孤例。王家臺秦簡(jiǎn)、岳麓秦簡(jiǎn)、北大秦簡(jiǎn)也有類(lèi)似文字,說(shuō)明秦朝后期 己不完全排斥儒家。

              不僅秦國,其他六國也一樣。通常認為專(zhuān)屬秦國的法家制度和精耕農業(yè),實(shí)際是魏國發(fā)明的;通常認為自由散漫的楚國,實(shí)行“縣制”比秦國還早;通常認為商業(yè)發(fā)達的齊國,其《管子》中也含有與秦相似的“保甲連坐”元素。

              可見(jiàn),儒法交織,刑德同用,是戰國晚期的整體潮流。各國政治觀(guān)念的底線(xiàn)就是“一天下”。

              誰(shuí)也不甘于小區域的分治,都要去爭奪完整的天下。不是爭要不要統一,而是爭由誰(shuí)來(lái)統一。對 整體“天下”的執著(zhù),是歷代中國政治家群體最為獨特之處。

              思想家們也是如此。人們只注重百家爭鳴的“爭”,卻往往忽視了它的“融”。幾十年來(lái)陸續出土的戰國簡(jiǎn)帛印證了“諸家雜糅”的現實(shí)。郭店簡(jiǎn)中,可以看到儒家與道家混同;上博簡(jiǎn)中,可以看到儒家與墨家混同;馬王堆帛書(shū)中,可以看到道家與法家混同。“德”不為孔孟獨享,“道” 不為老莊專(zhuān)有,“法”不由商韓把持。諸子百家思想融合的宗旨就是建立“統一秩序”。儒家強調 “定于一”的禮樂(lè )道德秩序,法家強調“車(chē)同軌、書(shū)同文”的權力法律秩序,墨家強調“尚同” 與“執一”的社會(huì )層級秩序。極端強調自由的道家也如此,老子的“小國寡民”之上還有“天下” 與“天下王”莊子也強調“萬(wàn)物雖多,其治一也”。

              戰國成為思想制度的熔爐。秦國的法家貢獻了大一統的基層政權;魯國的儒家貢獻了大一統 的道德秩序;楚國的道家貢獻了自由精神;齊國將道家與法家結合,產(chǎn)生了無(wú)為而治的“黃老之術(shù)”和以市場(chǎng)調節財富的“管子之學(xué)”魏韓貢獻了縱橫外交的戰略學(xué),趙燕貢獻了騎兵步兵合體的軍事制度,如此等等。最后的結果,就是漢朝。

              大一統,不是秦并了天下,而是天下消化了秦。

              戦國時(shí)代:分立から大一統へ

              (一)誤読された「百家爭鳴」

              1975年12月、湖北省の雲夢(mèng)県で秦の法律を記した「睡虎地秦簡(jiǎn)」が出土した。法家の書(shū)簡(jiǎn)の山からは意外にも「寛俗にして忠信、悔過(guò)して重ぬることなく、和平にして怨みなく、下を慈りて陵すことなかれ。上を敬して犯すことなく、諌を聴きて塞ぐことなかれ」との儒家精神に満ちた官吏養成教材の『為吏之道』が見(jiàn)つかった。この一例だけではない。王家臺秦簡(jiǎn)、岳麓秦簡(jiǎn)、北京大學(xué)秦簡(jiǎn)にも同様の文言があり、秦王朝の後期にはもう完全に儒教を排除していなかったことを示している。

              秦だけでなく、他の六國も同様であった。秦に限られていたと一般的に考えられていた法家制度や入念に耕作する農業(yè)は、実は魏國の発明だった。自由でまとまりがなかったと一般的に考えられている楚國は、秦よりも早く「県制」を実施していた。商業(yè)が発達していたと一般的に考えられている斉の『管子』にも秦と似通った「保甲(行政の末端組織)の連座」の要素が含まれていた。

              このように儒家と法家を織り交ぜ、刑罰と徳化を共に用いることが戦國時(shí)代末期の全體的な傾向だったことが分かる。各國の政治観念のベースラインは「一つの天下」だった。誰(shuí)も小さな地域を分割して統治することに甘んじず、完全な天下を奪取しようとした。統一が必要なのかどうかを爭うのではなく、誰(shuí)が統一するかを爭った。「天下」全體に対する執著(zhù)は、中國の歴代政治家集団の最も獨特な部分である。

              思想家達もそうだった。人々は百家爭鳴の「爭」だけに注目し、往々にしてその「融」を軽視してきた。數十年にわたって次々と出土してきた戦國時(shí)代の竹簡(jiǎn)と帛書(shū)(絹に書(shū)かれた文書(shū))は、「諸家雑糅(入り交じる)」だった史実を証明している。郭店簡(jiǎn)からは儒家と道家を同列に扱っていたことが見(jiàn)て取れる。上海博物館蔵の書(shū)簡(jiǎn)からは儒家と墨家を同列に扱っていたことが見(jiàn)て取れる。馬王堆帛書(shū)からは道家と法家を同列に扱っていたことが見(jiàn)て取れる。「徳」は孔子と孟子の獨占ではなく、「道」は老子と荘子の専有ではなく、「法」は商鞅と韓非の獨り占めではなかった。諸子百家の思想的融合の主旨は「統一的な秩序」の確立だ。儒家は「一に定まる」という禮楽(社會(huì )秩序を保つ禮と人心を感化する楽)の道徳秩序を強調し、法家は「同文同軌(文字と車(chē)輪の幅の統一)」の権力?法律秩序を強調し、墨家は「尚同(人々が一つの価値基準に従うことで社會(huì )を繁栄させる)」「一を執る」という社會(huì )階層秩序を強調した。極端に自由を強調する道家も同じで、老子の「小國寡民」の上には「天下」と「天下王」がある。荘子も「萬(wàn)物多しと雖も其の治は一なり」と強調した。

              戦國時(shí)代は思想?制度の鍛錬の場(chǎng)になっていた。秦國の法家は大一統の基礎となる政権で貢獻し、魯國の儒家は大一統の道徳秩序で貢獻し、楚國の道家は自由な精神で貢獻し、斉國は道家と法家を結び付け、無(wú)為にして治まる「黃老の術(shù)」と、市場(chǎng)によって富を調節する「管子の學(xué)」を生み出し、魏?韓は合従連衡外交の戦略學(xué)で貢獻し、趙?燕は騎兵と歩兵を融合した軍事制度で貢獻した。その最終的な結果が漢朝だ。

              大一統は秦が天下を併呑したのではなく、天下が秦を吸収したのだ。

              (二)秦的崛起與荀子之辯

              戰國最后50年。志士謀臣們分成兩大派。函谷關(guān)內的秦國,活躍著(zhù)法家與縱橫家;函谷關(guān)外的六國,活躍著(zhù)儒家、道家、兵家、陰陽(yáng)家、刑名家。齊國的稷下學(xué)宮是東方六國知識分子的聚集地,是與秦國對峙的另一個(gè)精神世界。這個(gè)精神世界的領(lǐng)袖,就是戰國最后一位儒家大師、三任稷下學(xué)宮祭酒的荀子。

              前269至262年之間,60多歲的荀子竟然入秦考察。他并沒(méi)有如傳統儒家那樣罵秦政是暴政,反而贊揚了秦的法家治理制度:秦的基層小吏忠誠勤儉,辦事盡心,像古代的官吏;秦的高級官員,不搞朋黨,賢明而有公心,像古代的士大夫;秦的朝廷,處理政事速度極快,沒(méi)有積存的事務(wù),像古代的朝廷。在儒家的話(huà)語(yǔ)體系中,“古之治”就是古代圣王的治理。對秦政如此高的評價(jià)竟出自儒家大師之口。

              不過(guò),荀子還說(shuō)了一句更重要的話(huà)。他認為,秦國雖有此優(yōu)勢,但依然沒(méi)能達到“王者”的 境界,原因是缺“儒”,“殆無(wú)儒邪”。怎樣才算是“有儒”呢?荀子建議“節威反文”,用君子治天下。這是后世“王權與士大夫共治天下”的雛形。

              荀子認識到,儒家雖然有著(zhù)統一的道德秩序,但沒(méi)有建立統一的治理體系。法家雖然能建立 統一的治理體系,卻在精神道義上有著(zhù)極大缺陷。如果秦國的法家制度,加上儒家的賢能政治與信義仁愛(ài),才能成為未來(lái)天下正道。

              對這番話(huà),秦王沒(méi)有理會(huì )。

              幾年之后的長(cháng)平之戰,印證了荀子的話(huà)。秦國在趙軍投降之后,背信坑殺了 40萬(wàn)趙軍。即便在血流成河的戰國,這也突破了道義的底線(xiàn)。秦國從來(lái)靠現實(shí)主義與功利主義取天下,又豈會(huì )用仁義道德自縛手腳。

              沒(méi)有力量的道義和沒(méi)有道義的力量,都不能回答眼前的現實(shí)。

              (二)秦の臺頭と荀子の議論

              戦國時(shí)代最後の50年間、志士と謀臣達は2つの主要な派閥に分かれていた。函谷関の內側の秦國では法家や縦橫家が活躍し、函谷関の外側の六國では儒家?道家?兵家?陰陽(yáng)家?名家が活躍した。斉國の稷下學(xué)宮は東方六國の知識人が集まる場(chǎng)所で、秦國と対峙するもう一つの精神世界だった。この精神世界のリーダーは戦國時(shí)代最後の儒家の大家で、三度稷下學(xué)宮の祭酒を務(wù)めた荀子であった。

              紀元前269~262年、60代の荀子は秦を視察した。彼は伝統的な儒家のように秦國の政治を暴政だと罵ることはしなかった。逆に秦國の法家の管理制度を稱(chēng)賛し、末端の役人は古代の官吏のようで、忠実?勤倹で、心を盡くして仕事をしていると、高級官吏は古代の士大夫のようで、グループを作らず、賢明で公徳心を持っていると、朝廷は古代の朝廷のようで、政務(wù)の処理が効率的で、山積みになった事務(wù)がないと褒めた。儒家の言葉の中で、「古の治」は古代の聖王の統治である。秦國の政治に対するこのような高い評価は儒家の大師の口から出てきたものである。

              しかし、荀子はもっと重要なことを話(huà)した。秦國にはこのような優(yōu)位性があるが、依然として「王者」の域までには達しておらず、その原因は「儒」の欠如で、「儒教がない」ためである。ではどうすれば「儒」があるといえるのか。荀子は「威を節して文に反る(武力を抑えて禮儀の政治に立ち戻る)」こと、君子を用いて天下を治めることをを提案した。これが後世の「王権が士大夫と天下を共治す」のひな型となった。

              荀子は、儒家は統一的な道徳秩序を持っているが、統一的な統治體系を確立していなかったことを認識した。法家は統一的な統治體系を確立できたが、精神的な道義に大きな欠陥があった。もし秦國の法家制度に儒家の賢能政治や信義仁愛(ài)が加われば、將來(lái)の天下の正道になれる。

              秦王はこの話(huà)に取り合わなかった。

              數年後の長(cháng)平の戦いは荀子の言葉を裏付けた。秦は趙軍が降伏した後、信義に背いて40萬(wàn)人の趙軍を生き埋めにして殺した。たとえ血の雨を降らす戦國時(shí)代であっても、これは道義の基準線(xiàn)を踏み越えている。秦は終始現実主義と功利主義を以て天下を取ってきたため、仁義と道徳で手足を縛るはずがなかった。

              力のない道義も、道義のない力も、共に目の前の現実には答えられない。

              (三)法家與儒家都不能少

              長(cháng)平之戰后,荀子放棄了政治,著(zhù)書(shū)立說(shuō)、教學(xué)授徒。

              他的思想體系與孟子的純粹儒學(xué)不同。孟子的“天”是懲惡揚善的義理之天,而荀子的“天” 是天行有常,不為堯存不為桀亡,因此要“制天命而用之”,這是中國最早的唯物主義。孟子崇尚王道鄙視霸道,而荀子認為應該王霸兼用。孟子只談義不談利,荀子卻要義利兼顧。孟子崇尚 法先王,而荀子認為應該法后王。

              他教出了兩個(gè)大有名氣的學(xué)生,一個(gè)是韓非,一個(gè)是李斯。他們學(xué)成后雙雙入秦大展宏圖,荀子卻為此悲而不食。因為他們不但沒(méi)有融合儒法,反而將法家發(fā)展到了極致。韓非的法家理論囊括了法、術(shù)、勢等三大流派;李斯則設計了法家的全部政策體系,“焚書(shū)坑儒”就是他建議的。他們都忘記了,老師荀子雖然肯定法家手段,卻始終堅持著(zhù)儒家價(jià)值觀(guān)一一比如忠義孝悌的倫理; 比如從道不從君、從義不從父的士大夫精神;比如政治以王道為根本,用兵以仁義為優(yōu)先。法家和儒家,是對立統一的關(guān)系,哪一個(gè)都不能少。如果沒(méi)有法家,儒家不能完成結構化和組織化,無(wú)法實(shí)現對基層社會(huì )的動(dòng)員,無(wú)法在大爭之世自我強化。但如果沒(méi)有儒家,法家將變成不受約束的力量,其威權體系只是完全標準化、垂直化、同質(zhì)化的執行體系。

              何況荀學(xué)并非只有儒法。《史記》言荀子之思想乃是總結儒、墨、道家的成功失敗匯聚而成 一一 “推儒、墨、道德之行事興壞,序列著(zhù)數萬(wàn)言以卒”。

              荀學(xué)最好地體現了中華文明在面臨巨大困境和矛盾時(shí)的包容精神。因為它遵循“中道”。中道的標準只在有益于事理,不必遵從于某種特定教條。用今天的話(huà)來(lái)說(shuō),就是“實(shí)事求是”。“凡事行,有益于理者立之,無(wú)益于理者廢之,夫是之為中事。凡知說(shuō),有益于理者為之,無(wú)益于理者舍之,為中說(shuō)。事行失中謂之奸道。”建立于實(shí)事求是基礎上的中道精神,使中華文明最善于 包容完全相反的矛盾體,最善于結合看似不可能的矛盾體,最善于使一切“非此即彼”的事物和諧共生。

              (三)法家も儒家も不可欠だ

              長(cháng)平の戦いの後、荀子は政治を放棄し、弟子を育成して、教育に攜わった。

              彼の思想體系は孟子の純粋な儒學(xué)とは異なっていた。孟子の「天」は勧善懲悪の義理の天で、荀子の「天」は「天行、常有り。堯の為に存せず、桀の為に亡びず」であったため、「天命を制して之れを用ふ」必要があった。これは中國最初の唯物主義だった。孟子は王道を尊重して覇道を軽蔑したが、荀子は王と覇を併用すべきだと考えた。孟子は義だけを語(yǔ)って利を語(yǔ)らなかったが、荀子は義と利を両立させようとした。孟子は「先王の道(古代の君主を理想像とする考え方)」を尊重したが、荀子は「後王の道(現在の君主の政策に従うべきだという考え方)」を尊重した。

              荀子は非常に有名な2人の弟子を教えた。一人は韓非で、もう一人は李斯である。學(xué)業(yè)を終えた後、二人とも秦に行って遠大な計畫(huà)を巡らしたが、荀子はそのことを悲しんで食事も取らなかった。彼らは儒と法を融合させなかっただけでなく、かえって法家を極限まで発展させたからだ。韓非の法家理論は法?術(shù)?勢の3大流派を網(wǎng)羅していた。一方、李斯は法家の全ての政策體系を設計し、「焚書(shū)坑儒」は彼が提案したものだった。師の荀子は法家の手段を肯定しているものの、終始一貫して儒家の価値観を堅持していたことを彼らは忘れていた。その価値観は、例えば忠義と孝悌の倫理であり、「道に従ひて君に従はず、義に従ひて父に従はず」の士大夫精神であり、政治は王道を根本とし、用兵は仁義を優(yōu)先するという考えである。法家と儒家は対立して一つになる関係で、どちらも欠けてはいけない。もし法家がなければ、儒家は構造化と組織化を達成できず、末端社會(huì )への働き掛けを実現できず、大戦の世で自らを強化できなかった。しかし、もし儒家がなければ、法家制約を受けない勢力となり、その権威體系は完全に標準化、垂直化、同質(zhì)化した執行體系にすぎなくなってしまっていた。

              ましてや荀學(xué)は決して儒法だけではなかった。「儒墨道徳の行事?興壊を推し、數萬(wàn)言を序列して卒す。」と「史記」に記されているように、荀子の思想はまさに儒家?墨家?道家の成功と失敗を集成したものである。

              荀學(xué)は中華文明が巨大な苦境と矛盾に直面した時(shí)の包容の精神を最もよく體現している。「中道」に従っているからだ。中道の標準は事の道理に有益だという點(diǎn)だけにあり、ある特定の教條に従う必要はない。今日の言葉でいえば、「実事求是」だ。「凡そ事行の理に益有る者は之れを立て、理に益無(wú)き者は之れを廃す。夫れ是れを之れ中事と謂ふ。凡そ知説の理に益有る者は之れを為し、理に益無(wú)き者は之れを捨つ。夫れ是れを之れ中説と謂ふ。事行中を失ふ、之れを奸事と謂ふ。知説中を失ふ、之れを奸道と謂ふ(事業(yè)と行動(dòng)に有益なものは行い、無(wú)益なものは廃止する。これを中事という。知識と學(xué)説に有益なものは採用し、無(wú)益なものは捨てる。これを中説という。事業(yè)と行動(dòng)が中事を失うことを奸事という。知識と學(xué)説が中説を失うことを奸道という)」。実事求是の基礎の上に確立された中道精神により、中華文明は完全に相反する矛盾を最も巧みに受け入れ、結合不可能に見(jiàn)える矛盾を最も巧みに結合させ、あらゆる二者択一の事物を最も巧みに調和、共生させる。

              (四)荀子的正名與大一統中國的“秘密”

              荀子終年90余歲。

              他的思想太矛盾,以致他死后的境遇更為曲折。與孟子并稱(chēng)的他,卻在儒家成為正統后的1800年里,從未被儒家各派推崇。900年后,韓愈為荀子辯解了幾句,也連帶著(zhù)被宋明理學(xué)又批判了900年。

              一直到清乾隆時(shí),專(zhuān)攻考據的清代大儒們才發(fā)現,那些漢初儒學(xué)從灰燼中翻出來(lái)的根本大典,不論今文經(jīng)學(xué)和古文經(jīng)學(xué),竟然全是荀子傳下來(lái)的。如《春秋左傳》《春秋谷梁傳》,如《毛詩(shī)》《魯詩(shī)》《韓詩(shī)》,如《大戴禮記》和《小戴禮記》。梁?jiǎn)⒊u價(jià)說(shuō),“漢代經(jīng)師,不問(wèn)今文家、古文家,皆出荀卿。二千年間,宗派屢變,一皆盤(pán)旋于荀子肘下”。

              原來(lái),在七國戰火熊熊燃燒的最后30年,他一只手教出了法家奇才李斯與韓非,另一只手卻默默書(shū)寫(xiě)傳授著(zhù)儒學(xué)。焚書(shū)坑儒后,只有他通過(guò)“私學(xué)”悄悄傳下來(lái)的這批經(jīng)典留存下來(lái),而被漢儒復述重寫(xiě)。“蓋自七十子之徒既歿,漢諸儒未興,中更戰國暴秦之亂,六藝之傳賴(lài)以不絕者,荀卿也。”

              一心改革經(jīng)典的異端,卻是最忠誠于經(jīng)典之人。

              行純粹者易,行中道者難。隨時(shí)要準備被兩個(gè)極端所拋棄所夾擊。即便如此,歷史最終會(huì )沿著(zhù)中道前進(jìn)。漢武帝與漢宣帝接受了荀子思想,“禮法合一”、“儒法合治”,“漢家自有制度,以王霸道雜之”。接著(zhù),歷代王朝也按照他的思想繼續前行。只是因為他的“不純粹”,所有王朝都 只用其實(shí)而不用其名。好在荀子只唯實(shí)不唯名。儒法由此真正合流。法家創(chuàng )造了中央集權郡縣制和基層官僚系統,儒家則創(chuàng )造了士大夫精神和家國天下的集體主義倫理,在魏晉唐宋又融合了道家和佛家,創(chuàng )造了儒釋道合一的精神世界。

              這種超級穩定的大一統國家結構發(fā)散到整個(gè)東亞,成為中華文明強而不霸、弱而不分、延綿不斷的秘密。之所以還稱(chēng)為“秘密”,是因為大多數西方學(xué)者至今仍未想了解。

              (四)荀子の正名と大一統の中國の「秘密」

              荀子は90歳すぎで亡くなった。

              彼の思想はあまりにも矛盾していたため、死後の境遇はいっそう複雑になった。儒家が正統になった後の1800年間の中で、孟子と並び稱(chēng)された彼は儒家各派に尊重されたことが一度もなかった。900年後に、韓癒は荀子のためにすこし弁明したことで、巻き添えになって宋明理學(xué)にまた900年間も批判されることになった。

              清の乾隆帝の時(shí)代になり、考証學(xué)を専門(mén)に研究する儒學(xué)の大學(xué)者たちはやっと、漢代初期の儒學(xué)者によって灰じんの中からよみがえった基礎的な重要文獻が、今文経學(xué)と古文経學(xué)に関わらず、意外にも全て荀子の伝えたものだということに気付いた。例えば「春秋左氏伝」と「春秋穀梁伝」、「毛詩(shī)」や「魯詩(shī)」や「韓詩(shī)」、「大戴禮記」と「小戴禮記」などである。梁?jiǎn)櫝稀笣hの経師は今文家、古文家を問(wèn)わず、みな根源には荀卿の思想がある。二千年の間、宗派は何度も変化してきたが、みな荀子の肘の下でぐるぐる回っているだけなのだ」と評価した。

              もとより、戦火が燃え盛っていた戦國時(shí)代最後の30年、彼は一方では法家の奇才である李斯と韓非を育て、もう一方では黙々と儒學(xué)について記して伝授していたのだ。焚書(shū)坑儒以降、彼が「私學(xué)」を通じて密かに伝えたこれらの古典だけが殘り、漢代の儒學(xué)者によって語(yǔ)られ、改めて書(shū)き記された。「蓋自七十子之徒既沒(méi)、漢諸儒未興、中更戦國暴秦之亂、六蕓之伝頼以後後を絶たず、荀卿も。(七十人の弟子が亡くなり、漢において儒教の諸流派は生じず、戦國時(shí)代の秦國による戦亂から、六蕓が絶えず伝承できるようになったのは、荀卿のおかげである)」

              古典を改革する異端者でありながら、古典に最も忠実な人である。

              純粋なことを行うのは易しいが、中道を行うのは難しい。両極端のものに見(jiàn)捨てられ、挾み撃ちされることに常時(shí)備えていなければならない。それでも歴史は最終的には中道をたどる。漢の武帝と宣帝は荀子の「禮法合一」「儒法合治」「漢家には制度があり、王覇道を以ってこれを雑す」の思想を受け入れた。さらに、歴代王朝も彼の思想に基づいて進(jìn)み続けた。ただし、彼の「不純さ」のため、すべての王朝はその名を出さずに事実だけを語(yǔ)った。折よく、事実だけを重んじ、名前を重視しないのが荀子だった。儒法はここで本當の意味での合流を果たした。法家は中央集権の郡県制と末端官僚組織をつくり出し、儒家は士大夫精神と家國天下の集団主義倫理をつくり出し、魏晉唐宋でまた道家と釈家(仏教)を融合し、儒釈道合一の精神世界を形作った。  

              非常に安定したこのような大一統の國家構造は東アジア全體に広まり、中華文明が強くても覇を唱えず、弱くても分裂せず、延々と続いてきた秘密になった。これをまだ「秘密」と呼ぶのは、大多數の西洋の學(xué)者が今なお理解していないからだ。

              希臘:成也城邦,敗也城邦

              (一)“大希臘主義”

              公元前325年,亞歷山大率領(lǐng)著(zhù)征服了埃及和波斯的希臘雄師萬(wàn)里迢迢來(lái)到印度旁遮普邦比亞斯河畔。跨過(guò)河就是全印度乃至中國。他激情澎湃地鼓勵將士們繼續前進(jìn)。而馱滿(mǎn)沉甸甸戰利品的戰士們再也不想東進(jìn)半步。亞歷山大只好順著(zhù)河邊的斜陽(yáng)痛哭而返,兩年后病死。

              亞歷山大的東征,來(lái)自希臘世界的統一運動(dòng)。希臘統一運動(dòng)來(lái)源于城邦危機。今天,西方深刻緬懷的希臘古典文明,其實(shí)只是雅典歷史上的一小段,即伯利克里執政的黃金時(shí)期,代表著(zhù)民主制度的最偉大成就。而這短短幾十年黃金期后,希臘城邦世界就陷入無(wú)休止的惡性?xún)榷贰Q诺浜退拱瓦_競相稱(chēng)霸,雙方都曾血腥屠城。戰亂之中,土地逐漸集中到富人手里,失去土地的貧民為了外邦的金錢(qián)變成了雇傭兵,轉頭攻打自己的城邦。

              這種亂局持續了100年。亂局中誕生了一種呼聲:各城邦不要再爭搶彼此有限資源,應團結向外征服殖民波斯,如此希臘才會(huì )獲得永久和平。

              呼聲最響亮的,一個(gè)是雅典頭號雄辯家伊索克拉底,一個(gè)是希臘頭號哲學(xué)家亞里士多德。

              在發(fā)表于公元前380年的《泛希臘集會(huì )詞》中,伊索克拉底說(shuō),“在我們從同一源泉獲得利益、和同一敵人進(jìn)行戰斗之前,希臘人不可能和睦相處。” “為此,我們必須竭力使戰爭盡快從這里轉入亞洲大陸(小亞細亞)。”

              這個(gè)思路,近代歷史學(xué)家稱(chēng)為“泛希臘主義”或“大希臘主義”。其根本動(dòng)力,是解決土地缺乏、人口過(guò)剩的問(wèn)題。傳播希臘文明,只是附帶產(chǎn)物。這成為后世西方殖民帝國主義的思想雛形。伊索克拉底是第一個(gè)提出殖民帝國主義的人。

              但他呼吁了40年,雅典卻因為內戰派掌權而一直置若罔聞。繼續打斯巴達,打底比斯,打馬其頓,就是不愿意團結一起對外打波斯。

              他最終放棄了雅典,公開(kāi)呼吁希臘城邦世界的邊緣國家馬其頓國王腓力來(lái)統一希臘。他向腓力建議了一個(gè)著(zhù)名的戰略,“你要勸說(shuō)其他的波斯總督擺脫波斯國王的束縛,前提就是你將給與他們‘自由’,并且還要將這種‘自由’惠及到亞細亞地區。因為‘自由’這個(gè)詞一來(lái)到希臘世界,就導致了我們(雅典)的帝國和拉西第夢(mèng)人(斯巴達)的帝國的瓦解。”(《致腓力辭》)

              這些話(huà),和后人對雅典自由民主的印象太不一樣了。20年以后,腓力的兒子亞歷山大正是按照伊索克拉底的戰略思路,征服了埃及和波斯,建立了大希臘殖民帝國。但亞歷山大的老師不是伊索克拉底,而是亞里士多德。亞里士多德在“大希臘”的道路上,比伊索克拉底走的更遠。

              ギリシャ:勝っても負けてもポリス(都市國家)のおかげ

              (一)「大ギリシャ主義」

              紀元前325年、アレクサンドロス大王はエジプトとペルシアを征服したギリシャの精兵を率いて、はるばるインドのパンジャーブ地域のビアース河畔にたどり著(zhù)いた。川を渡ればインド全域、ひいては中國だ。彼は前進(jìn)を続けるよう熱い思いで將兵を鼓舞したが、重い戦利品を積んだ戦士たちはそれ以上東へ進(jìn)もうとしなかった。アレクサンドロス大王は河畔の夕日に向かって激しく泣き、引き返すほかなかった。彼は2年後に病死した。

              アレクサンドロス大王の東征はギリシャで始まった統一運動(dòng)である。ギリシャの統一運動(dòng)はポリスの危機から生まれた。今日、西洋が深く懐かしむギリシャ古代文明は、実際のところ民主制度の最も偉大な業(yè)績(jì)を代表するアテネの歴史の一部、すなわちペリクレスが政治を行った黃金時(shí)代にすぎない。ごく短い數十年の黃金時(shí)代の後、ギリシャのポリスは絶え間ない內部抗爭に陥っていた。アテネもスパルタも支配権を爭い、雙方ともに都市市民を大量に殺害して血生臭くしたことがあった。戦亂の中、土地は次第に富裕層に集中し、土地を失った貧民は外國の金銭を得るために傭兵となり、自分のポリスを攻めるようになった。

              このような混亂した局面が100年も続いた。この難局の中で、各ポリスは互いの限られた資源を奪い合うのではなく、団結して外部に向い、ペルシアを征服して植民すべきで、そうすればギリシャは永遠の平和を獲得できるという聲が出てきた。

              最も高らかに聲を上げたのはアテネ最高の雄弁家イソクラテスとギリシャ最高の哲學(xué)者アリストテレスである。

              イソクラテスは紀元前380年に発表した「パネギュリコス(オリンピア大祭演説)」の中で、「同じ源泉から利益を得て、同じ敵と戦うまで、ギリシャ人は仲良くすることはできない」「そのため、私たちは戦爭をできるだけ早くここからアジア大陸(小アジア)に移るように全力を盡さなければならない」と述べた。

              現代の歴史學(xué)者はこの考え方を「汎ギリシャ主義」あるいは「大ギリシャ主義」と呼ぶ。その根本的な原動(dòng)力は土地不足や人口過(guò)剰の問(wèn)題の解決である。ギリシャ文明の伝播は単なる副産物にすぎなかった。これは後世の西洋における植民地帝國主義の思想のひな型となった。イソクラテスは植民地帝國主義を打ち出した最初の人物である。

              しかし、彼が40年間呼び掛けても、アテネは內戦派が政権を握っていたため、終始全く耳を貸さなかった。むしろ引き続きスパルタやテーベ、マケドニアを攻撃し、団結してペルシアと戦おうとはしなかった。

              イソクラテスはついにアテネを諦め、マケドニア國王ピリッポス2世にギリシャ統一を公然と呼び掛けた。彼は有名な戦略をピリッポス2世に提案した。「ほかのペルシア総督にペルシア國王の束縛から抜け出すよう説得する必要があります。その前提は彼らに「自由」を與え、さらにそうした「自由」の恩恵をアジア地域に及ぼすことです。なぜなら、「自由」という言葉がギリシャ世界に入ってくると、私たち(アテネ)の帝國とラケダイモン(スパルタ)人の帝國の瓦解を惹き起こしたからです」(「ピリッポスへ」)

              これらの話(huà)は、自由と民主というアテネに対する後世の人々の印象とは大いに異なる。20年後、ピリッポスの息子アレクサンドロス大王はイソクラテスの戦略と考え方に従ってエジプトとペルシアを征服し、大ギリシャ植民地帝國を打ち立てた。ただ、アレクサンドロス大王の師はイソクラテスではなく、アリストテレスだった。アリストテレスは「大ギリシャ」の道を、イソクラテスよりもさらに遠くまで進(jìn)んだ。

              (二)“希臘帝國”的兩副面孔

              亞里士多德生于馬其頓轄下的色雷斯小城邦,是雅典人眼里的蠻族地區。

              亞里士多德雖然身在蠻族,卻心在雅典。17歲的他獨身一人投奔雅典柏拉圖學(xué)院。他是柏拉圖最優(yōu)秀的弟子,一度有望成為接班人。但柏拉圖逝世時(shí),卻將學(xué)院交給了親侄子而不是他。最重要的原因是,亞里士多德是個(gè)外邦人。他在雅典不能擁有合法財產(chǎn)(土地),更不能參與政治,因為他沒(méi)有“公民權”。按照法律,擁有雅典公民權的必須父母都是雅典人。法律把希臘最偉大的智者和雅典分開(kāi)了;把所有不產(chǎn)于雅典卻愿意忠于雅典之士和雅典分開(kāi)了。有意思的是,這條法律正是民主政治楷模伯利克里頒布的。

              亞里士多德離開(kāi)了雅典,投奔了馬其頓,擔任亞歷山大的老師。他按照希臘文明的最高標準塑造著(zhù)亞歷山大。他讓14歲的少年喜愛(ài)上了希臘文學(xué)與荷馬史詩(shī),并對生物學(xué)、植物學(xué)、動(dòng)物學(xué)等廣闊的知識產(chǎn)生熱情。更重要的還是政治思想。亞里士多德為教育亞歷山大專(zhuān)門(mén)寫(xiě)了《論君主》和《論殖民地》。黑格爾說(shuō),亞歷山大的精神和事業(yè)的偉大正是來(lái)自亞里士多德深刻的形而上學(xué)。

              亞歷山大一邊殘酷征服,一邊傳播希臘文明。他在非洲、西亞、中亞和南亞建立了大量擁有競技場(chǎng)和神廟的希臘化城市,用博物院和圖書(shū)館建造科學(xué)文化、哲學(xué)藝術(shù)的殿堂。他甚至還把亞洲的動(dòng)植物標本源源不斷送回給正在雅典辦學(xué)的亞里士多德做研究。之后的拿破侖遠征埃及時(shí)也帶上了大量考古學(xué)家,最終發(fā)現了羅塞塔石碑,開(kāi)啟了埃及學(xué)。西方帝國主義暴力征服+文明傳播的方式,是亞里士多德發(fā)明的。

              亞里士多德對亞歷山大提出要求,“做亞洲人的主人,做希臘人的領(lǐng)袖。”伊索克拉底也曾對腓力說(shuō),“說(shuō)服可用于希臘人,強迫可用于蠻族人”。這正是“希臘帝國”的精髓一一內部是民主, 外部是殖民;上面是公民,下面是奴隸。這種雙重標準的希臘式帝國,是日后歐洲帝國的精神原型與政治模板。

              (二)「ギリシャ帝國」の二つの顔

              アリストテレスはマケドニアの管轄下にあるトラキア地域に生まれた。そこはアテネ人から見(jiàn)ると蠻族の地域だった。

              アリストテレスは蠻族に身を置いていたが、心はアテネにあった。17歳の時(shí)、彼は一人でプラトン學(xué)院にいった。彼はプラトンの最も優(yōu)秀な弟子であり、一時(shí)的には後継者として期待されたこともあった。しかし、プラトンは死去した時(shí)に、學(xué)園を彼ではなく、自分の甥に任せた。一番の理由はアリストテレスが外國人だったことだ。彼には「公民権」がなかったため、アテネで合法的な財産(土地)が所有できず、政治にも參加できなかった。法律によれば、両親共にアテネ人でなければアテネ市民権を持つことができなかった。法律はギリシャの最も偉大な知者をアテネから切り離した。また、アテネ以外で生まれながらも喜んでアテネに忠誠を盡くそうとする全ての有識者をアテネから切り離した。興味深いことに、この法律は民主政治の模範であるペリクレスが発布したのである。

              アリストテレスはアテネを離れてマケドニアに身を寄せ、アレクサンドロスの教師になった。彼はギリシャ文明の最高の基準でアレクサンドロス大王を育てた。彼の教育によって14歳の少年はギリシャ文學(xué)やホメーロスの敘事詩(shī)を愛(ài)読し、生物學(xué)、植物學(xué)、動(dòng)物學(xué)などの知識を情熱的に學(xué)ぶようになった。それ以上に重要なのはやはり政治思想だ。アリストテレスはアレクサンドロス大王を教育するために特に『王道論』『植民論』を書(shū)いた。アレクサンドロス大王の精神と事業(yè)の偉大さはアリストテレスの深い形而上學(xué)から來(lái)ているとヘーゲルは指摘した。

              アレクサンドロス大王は容赦なく征服しながらギリシャ文明を広めた。アフリカ、西アジア、中央アジア、南アジアに競技場(chǎng)や神殿を備えたギリシャ型都市を大量に建設し、博物館と図書(shū)館で科學(xué)、文化、哲學(xué)、蕓術(shù)の殿堂をつくり上げた。またアテネで學(xué)校を経営していたアリストテレスアの研究のためにアジアの動(dòng)植物の標本を送り返し続けた。その後、ナポレオンはエジプト遠征の際にも多くの考古學(xué)者を連れて行き、ついにロゼッタ?ストーンを発見(jiàn)してエジプト學(xué)が始まった。西洋の帝國主義の「暴力的征服+文明の伝播」という方式はまさにアリストテレスに起源する。

              アリストテレスはアレクサンドロス大王に「アジア人の主人になり、ギリシャ人の指導者になる」ことを求めた。イソクラテスもかつてピリッポス2世に「説得はギリシャ人に、強要は蠻族に用いてよい」と述べた。これこそ、內部が民主で外部が植民、上部が公民で下部が奴隷という「ギリシャ帝國」の精髄だ。こうしたダブルスタンダードのギリシャ式帝國が後日の歐州帝國の精神的な原型、政治的なひな型である。

              (三)統一與自由的悖論?

              歷史的發(fā)展和他們的設想不一樣。

              公元前338年爆發(fā)喀羅尼亞戰爭。雅典不服馬其頓,起兵挑釁,被馬其頓打得大敗。馬其頓乘勝組織科林斯同盟,并開(kāi)始進(jìn)軍波斯。得到這個(gè)消息的時(shí)候,伊索克拉底己經(jīng)98歲了。他看見(jiàn)運送回來(lái)的雅典士兵的尸體,絕食身亡。

              他的“大希臘”設想,蘊含著(zhù)一個(gè)無(wú)法解決的矛盾一一馬其頓擁有強力,如何保證它對雅典只用“說(shuō)服”而不用殺戮?反過(guò)來(lái),善于雄辯的雅典,又豈能甘心被馬其頓“說(shuō)服”?死于馬其頓陣前的雅典青年尸體,使他明白了日后仍會(huì )重復的悲劇。他既珍視自由,又渴望團結統一。統一帶來(lái)的暴力,會(huì )破壞自由。但自由產(chǎn)生的混亂,又會(huì )破壞統一。

              伊索克拉底死后,希臘城邦再無(wú)團結。希臘大軍遠征前夜,腓力剛死于暗殺,底比斯就聞聲而叛;亞歷山大剛死于巴比倫,雅典就又揭竿而起;最后,當馬其頓與羅馬入侵者決戰時(shí),希臘城邦竟給了該王國背后致命一擊。即便馬其頓將希臘的半島文明拓展成世界文明,但希臘城邦寧可同毀于外人也不買(mǎi)這個(gè)賬。

              美國古史學(xué)家弗格森總結說(shuō),希臘城邦不可能融合。“希臘城邦是一個(gè)有著(zhù)獨特內在構造的單細胞有機體,除非進(jìn)行再分割,否則無(wú)法發(fā)展,它們可以無(wú)限制地復制同類(lèi)。但這些細胞,無(wú)論新舊,都無(wú)法聯(lián)合起來(lái),形成一個(gè)強大的民族國家。”

              因為,希臘城邦政治的根基,不是民主,而是自治。城邦自身可以選擇任何政治制度,但絕不服從外來(lái)的權威。有權力決定政治制度的,只能是城邦內的世居者。“絕對自治”意味著(zhù)“絕對地方主義”,讓統一變得不可能。希臘城邦不只反對領(lǐng)土國家,連馬其頓組建聯(lián)邦也反對。到整個(gè)希臘世界被羅馬征服之前,他們都沒(méi)有演化出一套大小城邦都滿(mǎn)意的“聯(lián)邦制”。城邦的利益定要凌駕于共同體利益之上。

              (三)統一と自由のパラドックス

              歴史の発展は彼らの構想とは異なっている。

              紀元前338年、カイロネイアの戦いが勃発した。アテネはマケドニアに服さず、兵を挙げて挑発したが、マケドニアに大敗した。マケドニアは勝利に乗じてコリントス同盟を組織し、ペルシアに進(jìn)軍した。この知らせを受けたとき、イソクラテスはすでに98歳だった。送り返されてきたアテネ兵の遺體を見(jiàn)た後、彼は絶食による死を選んだ。

              彼の「大ギリシャ」構想には解決しようのない矛盾があった。どうすれば強い力を有するマケドニアにアテネに対して「説得」だけを行い、殺害はしないようにできるだろうか。逆に、雄弁なアテネは、マケドニアに「説得」されることを喜んで受け入れるだろうか。マケドニアとの戦場(chǎng)で死亡した青年らの死體によって、彼はこれからも悲劇が繰り返されることを理解した。彼は自由を大切にしながらも、団結と統一を渇望した。統一がもたらす暴力は自由を破壊する可能性があった。ただ、自由が生む混亂もまた、統一を破壊する可能性があった。

              イソクラテスの死後、ギリシアポリスは二度と団結しなかった。ギリシャの大軍の遠征前夜、ピリッポスが暗殺された知らせを聞いて、テーベはすぐに離反した。アレクサンドロス大王がバビロンで死ぬと、アテネは反亂を起こした。最後にマケドニアがローマの侵入者と決戦した際、ギリシアポリスはあろうことか背後からマケドニアに致命的な一撃を加えた。マケドニアがギリシャの半島文明を広めて世界文明にしたとはいえ、ギリシアポリスはむしろ共によそ者に破壊されようともその権威を認めなかった。

              米國の歴史學(xué)者ファーガソンは次のように総括している。「ギリシャポリスは獨特の內在的な構造の単細胞の有機體で、再分割を進(jìn)めない限り発展しようがなく、それらは無(wú)制限に同じような都市を複製できた。しかし、それらの細胞は新舊を問(wèn)わず、連合して一つの強大な民族國家を形成することはできなかった。」

              なぜなら、ギリシャのポリス政治の基盤(pán)は民主ではなく自治だったからだ。ポリス自身はいかなる政治制度も選択できるが、決して外來(lái)の権威に服従することはない。政治制度を決定する権力を持つのは、代々ポリスに住んでいる人達だけだ。「絶対的な自治」は「絶対的な地方主義」を意味し、統一を不可能にした。ギリシャポリス領(lǐng)土國家に反対しただけでなく、マケドニアが同盟を構築することさえも反対した。ギリシャはローマに征服されるまで、大小のポリス全てが満足する「連邦制」には進(jìn)化できず、ポリスの利益は終始一貫して共同體の利益の上にあった。

              (四)戰國的“合”和希臘的“分”

              對“分”與“合”,戰國與古希臘的政治觀(guān)念完全不同。

              中國上古時(shí)代也曾經(jīng)有過(guò)萬(wàn)邦林立、一城一國的局面(執玉帛者萬(wàn)國)。到周初還剩一千八百個(gè)部落方國。但最終這些城邦沒(méi)有長(cháng)期分立,而是形成了地區性王國,進(jìn)而發(fā)展成統一王朝。表面上看,西亞北非的古老文明如蘇美爾、埃及和波斯也是如此。其實(shí)不一樣。亞非古國靠的是 “神權”,中國靠的是世俗倫理共識。

              夏商周時(shí)的邦國世界中,始終存在一個(gè)名義上或實(shí)際上的共主。誰(shuí)能當共主,取決于誰(shuí)擁有唯一的天命。天命同時(shí)包括了武力和道德。誰(shuí)能既強大又保民,誰(shuí)才能擁有天命。否則,天命就會(huì )轉移。就會(huì )發(fā)生殷革夏命,周革殷命。即便在戰國時(shí)代,天命也是唯一的。戰國七雄和諸子百家不管怎樣爭斗,都認為只能有一個(gè)秩序,分治不應長(cháng)久。而同時(shí)代的希臘城邦世界不存在共主,只有不同的聯(lián)盟互相斗爭而從不認為存在一個(gè)“共同的秩序”。

              從城邦之間的關(guān)系來(lái)看,周禮規定一國發(fā)生瘟疫災荒,其他國家要借糧賑災;一國有喜事喪事,各國要前往慶賀哀悼。這些責任是強制性的,由天子維持。霸主也要維持這套規矩才能稱(chēng)霸。這就強化了邦國之間同屬“華夏世界”的認同。而希臘城邦之間沒(méi)有建立責任關(guān)系。即便是從母邦殖民出去的新城邦,對母邦也沒(méi)有責任義務(wù),甚至經(jīng)常反戈一擊。即便在希波戰爭時(shí),希臘人共同身份也只起到微弱作用。

              兩種文明根性塑造了兩種不同的道路。

              西方不斷走向分。從地域上分,從民族上分,從語(yǔ)言上分。其間也有統一的努力,如羅馬的努力,基督教的努力。但分的趨勢占據主流,最終歸結到了個(gè)人主義和自由主義。

              中國則不斷走向合。從地域上合,從民族上合,從語(yǔ)言上合,其間也有分離的時(shí)期,比如王朝更替,比如游牧民族沖擊,但合的趨勢占主流。造就了中華文明的集體主義。

              中華文明并不是沒(méi)有“分”的概念,但并不是“分治”,而是“分工”。荀子說(shuō),人體力弱小,何以能超越禽獸而生存?因為人能組織成集體。組成集體的關(guān)鍵在“分工”。即確定不同的社會(huì )角色,但要對彼此承擔起責任。只要分工符合“禮義”,就能整合社會(huì )。因此,分是為了和,和是為了統一,統一則多力,多力則強大,強大則能夠改造自然。

              (四)戦國時(shí)代の「合」とギリシャの「分」

              「分」と「合」について、戦國時(shí)代と古代ギリシャの政治的概念は全く違う。

              中國の上古時(shí)代にも多くの國が林立し、一城が一國である狀況があった( 玉帛を執る者、萬(wàn)國なり)。周の初めになってもまだ1,800の部落の國が殘っていた。しかし、これらの都市國家は結局長(cháng)期的には分立せず、地域王國を形成し、さらに統一された王朝に発展した。表面的には、シュメール、エジプト、ペルシアなどの西アジア?北アフリカの古代文明も同様のように見(jiàn)えるが、実は違う。アジア?アフリカの古代國が頼りにしたのは「神権」であったが、中國は世俗的、倫理的な共通認識を頼りにしていた。

              夏?商?周の邦國の世界には、名義上の、あるいは実際の宗主國が常に存在していた。誰(shuí)が宗主國になれるかは、誰(shuí)が唯一の天命を持つかにかかっている。天命は武力と道徳を同時(shí)に含んでいる。強くて民を守ることができるからこそ、天命を持つことができる。さもなければ、天命は移り、殷が夏の革命を行い、周が殷の革命を行うようになる。戦國時(shí)代であっても、天命は唯一であった。戦國七雄と諸子百家はいくら爭っても、末永く分治すべきではないという一つの秩序しか認めなかった。しかし、同時(shí)代のギリシャのポリス世界には宗主がおらず、異なる同盟だけが互いに衝突し、「共同の秩序」が存在するとは考えなかった。

              都市國家間の関係から見(jiàn)ると、周禮では一國で疫病の災難が発生したら、他の國は食糧を貸して救済しなければならないと、一國に冠婚葬祭があると、各國は祝賀もしくは哀悼に行かねばならないと決められていた。これらの責任は強制的であり、天子により維持される。覇者もこれを維持してこそ制覇できる。これにより各國の同じく「華夏世界」に屬するという認識を強化した。ギリシャのポリス國家の間には責任関係がなかった。たとえ母邦から植民した新しい都市國家であっても、母邦に対する責任や義務(wù)はなく、時(shí)々反撃することさえあった。ギリシアとペルシアの戦爭のときでも、ギリシャ人としての共通のアイデンティティの果たす役割は少なかった。

              2つの文明の性質(zhì)は2本の異なる道を形作った。

              西洋は常に分裂のへ向かった。地域から、民族から、言語(yǔ)から分裂していった。その間、ローマによる取り組みやキリスト教による取り組みなどの統一への取り組みもあった。しかし、やはり分裂傾向が主流で、最終的には個(gè)人主義と自由主義に行き著(zhù)いた。

              中國は常に統合へ向かった。地域から、民族から、言語(yǔ)から統合に向かい、その間には王朝の交替、遊牧民族の攻撃といった分離の時(shí)期もあったが、統合の傾向が主流だった。これは中華文明における集団主義を作り上げた。

              中華文明に「分」という概念がないわけではないが、あるのは「分治」ではなく「分業(yè)」だ。荀子は次のように述べている。體力が弱い人間は、どうすれば禽獣を超越して生きることができるのだろうか?人は集団を作ることができるからだ。人の集団形成において肝心なのは「分業(yè)」だ。即ち、異なる社會(huì )的役割を決めるが、互いに責任を負わなければならないということだ。分業(yè)が「禮義」に合っているなら、社會(huì )を統合することができる。したがって、分かれることは和のためであり、和は統一のためで、統一したら力が増し、力が増したら強くなり、強くなれば自然を改造することができるのだ。

              (五)為什么亞氏思想塑造了后世西方文明,卻無(wú)法征服雅典?

              亞里士多德比伊索克拉底多活了十五年。

              亞歷山大輝煌遠征時(shí),師以徒貴,亞里士多德榮歸雅典,開(kāi)辦了“呂克昂學(xué)院”專(zhuān)門(mén)收羅和自己一樣外邦出身的思想家并很快壓過(guò)了柏拉圖學(xué)院。雅典人罵亞里士多德是文化侵略的急先鋒。

              亞里士多德在此建立了人類(lèi)歷史上最廣博、最統一的知識體系,寫(xiě)下了被西方政治學(xué)奉為圭臬的名著(zhù)《政治學(xué)》,其中有大量對城邦政治的反思。他嚴厲批評了其中的暴民政體是不以法律為依歸的另一種專(zhuān)制。類(lèi)似于極端民粹主義。

              他還提出了“絕對王權”的概念。即“由君主一人代表整個(gè)氏族或整個(gè)城市,全權統治全體人民的公務(wù),猶如家長(cháng)對于家庭的管理。” 他認為,“整體總是超過(guò)部分,這樣卓絕的人物,本身恰恰是一個(gè)整體,而其他的人們便類(lèi)于他的部分,惟一可行的辦法就是大家服從他的統治,不同他人輪番,讓他無(wú)限期地執掌治權。” 批評亞里士多德的人說(shuō),“絕對王權”是為了亞歷山大量身定做的政治理論,說(shuō)明他熱愛(ài)權力甚于真理。

              亞歷山大死后,亞里士多德立即遭到反攻倒算。要面臨雅典公民大會(huì )的審判,借口是他“褻瀆神靈”。上次這樣被審判而喝下毒芹汁的,是他的師祖蘇格拉底。

              亞里士多德不愿重蹈覆轍。他逃匿到馬其頓的維亞島上,一年后怏怏去世。他的逃跑遭到滿(mǎn)雅典的嘲笑。

              (五)アリストテレスの思想は後世の西洋文明を形作ったのに、なぜアテネは征服できなかったのか?

              アリストテレスはイソクラテスより十五年長(cháng)生きした。

              アレクサンドロス大王の輝かしい遠征の時(shí)、弟子のおかげで貴くなったアリストテレスはアテネに戻り、「リュケイオン學(xué)院」を開(kāi)いて、自分のような異邦人の思想家ばかりを集め、すぐにプラトン學(xué)院を圧倒した。アテネ人はアリストテレスを文化侵略の急先鋒だと非難した。

              アリストテレスはここで人類(lèi)歴史上最も幅広く、最も統一された學(xué)問(wèn)體系を構築し、西洋政治學(xué)から規範と見(jiàn)なされる名著(zhù)『政治學(xué)』を書(shū)いたが、その中には大量の都市國家政治に対する反省があった。彼は暴徒化した政體を、法律に依存しない別のタイプの専制だと厳しく批判した。極端なポピュリズムに似ていた。

              また「絶対王権」の概念も打ち出した。「君主一人が氏族や都市全體を代表し、一家の長(cháng)による家庭の管理と同じように、國民全體の公務(wù)の全権を掌握して統治する」ということだ。彼は、「全體は常に一部分を超えている。このように卓絶した人物は、それ自體が全體であり、他の人々は彼の一部分のようなものである。唯一実行可能な方法は、誰(shuí)もが彼の統治に服従し、彼は他人と交替せず、無(wú)期限に統治権を握ることである」と考えた。アリストテレスを批判した人達は、「絶対王権」はアレクサンドロス大王のために作られた政治理論であり、彼が真理よりも権力を愛(ài)することを示していると述べた。

              アレクサンドロス大王の死後、アリストテレスは反撃を受け、逆清算された。彼はアテネ市民大會(huì )の裁判にかけられたが、その理由は彼の「神への冒涜」だった。過(guò)去このような審判を受け、有毒なヘムロックを飲んだのは彼の師であるソクラテスだった。

              アリストテレスは同じ失敗を繰り返したくなかった。彼はマケドニアのエウボイア島に逃げ込み、一年後に病死した。逃走した彼をアテネは嘲笑った。

              (六)希臘帝國的堙滅及其教訓

              亞里士多德死后,亞歷山大帝國內部分裂,三大繼承者王國相互征伐,不斷再分裂再獨立。這不是因為亞歷山大死得早。在他沒(méi)死時(shí),除了推動(dòng)了一部分歐亞上層通婚外,沒(méi)有對征占的龐大帝國進(jìn)行過(guò)內部政治整合,更沒(méi)有進(jìn)行過(guò)基層政權建構。

              馬其頓帝國的擴張方式,是在所到之處創(chuàng )建希臘式的自治城市。這種“自治”是對留居該城市的希臘殖民者而言,不包括被征服的土著(zhù)社會(huì )。在每個(gè)新征服的亞洲城市,亞歷山大都把自己的“王友”派駐到該城市當總督,只管軍事和稅收,不管民政。

              中國戰國的基層政權組織方式則完全不同。出土秦簡(jiǎn)顯示,秦國每擴張一處,都要建立從縣到鄉的基層政權組織。其縣鄉官吏要處理所有的民政,組織墾荒、統計戶(hù)口、征收稅賦,記錄物產(chǎn),再把這些信息輸送到秦都咸陽(yáng)編冊保存。秦吏也不在一地久留,而是數年一輪換。

              如果只要金錢(qián)與稅收,不服就派軍隊鎮壓。一時(shí)可以最小的行政成本獲取最大的財富,但也放棄了對當地社會(huì )的長(cháng)遠整合。中央強大時(shí)尚可,一旦中央權力衰弱,離心力就產(chǎn)生了,城市紛紛脫離控制。亞歷山大帝國的分崩離析是必然的。

              這不能怪亞歷山大。因為即便是他的導師亞里士多德,也從未設想過(guò)超大規模政治體的理論制度。他的“絕對王權”概念,只是從一個(gè)城邦的角度。在那個(gè)時(shí)代,并不是沒(méi)有超大政治體可供研宄,如埃及和波斯。但亞里士多德認為它們都是“非政治”的,是不先進(jìn)的,只有希臘城邦政治才能叫做“政治”。

              后人辯解說(shuō),雖然作為政治實(shí)體的希臘統一國家消失了,但作為文化精神的希臘,在羅馬的軀體上得以永存,成為歐洲精神的母體。國家滅亡無(wú)所謂,文化永存己足夠。

              這要聽(tīng)聽(tīng)當時(shí)的希臘人民怎么說(shuō)。希臘邦國滅亡過(guò)程中,一大批希臘高級知識分子作為人質(zhì)被送入羅馬貴族家庭當老師。其中就有著(zhù)名歷史學(xué)家波利比烏斯。他在名著(zhù)《歷史》中問(wèn)道,“為什么希臘不斷瓦解,羅馬卻能一直強大”?他那時(shí)心中想要的,恐怕不是僅存精神的希臘,而是一個(gè)實(shí)體與精神共存的希臘。

              “自由優(yōu)先”還是“秩序優(yōu)先”

              這幾位思想家的命運,說(shuō)明每一個(gè)文明內部,每一種精神追求,都蘊含著(zhù)巨大矛盾。在人類(lèi)社會(huì )進(jìn)程中,不存在某種能解釋一切的理論,不存在某種普世的絕對原則。每一個(gè)致力于改變真實(shí)世界、而不是構建烏托邦的思想家,終有一刻,都會(huì )面臨著(zhù)不可自洽、相反相成的痛苦。但這痛苦和矛盾中,也孕育著(zhù)相輔相成的未來(lái)之路。要敢于不向任何一種絕對性低頭,要敢于在不可能處創(chuàng )造可能。

              當今東西方文明觀(guān)念的最大糾結,是“自由優(yōu)先”還是“秩序優(yōu)先”。這分別是希臘文明和中華文明的核心價(jià)值觀(guān)。

              希臘人對自由的熱愛(ài),讓“希臘人”從種族的名字變成了“智慧”的代名詞。中國人對秩序的熱愛(ài),則讓中華文明成為了唯一同根同文并以國家形態(tài)持續至今的文明。

              秩序優(yōu)先帶來(lái)的穩定,自由優(yōu)先帶來(lái)的創(chuàng )新,哪個(gè)更值得追求?這涵蓋了哲學(xué)、政治學(xué)、宗教學(xué)、倫理學(xué)的無(wú)窮爭論。我們不需要定論。保留這些不同的本身,恰好為文明日后的互鑒互融留下可能。多元與矛盾并存,會(huì )為人類(lèi)文明基因庫留下更多種子。對自由優(yōu)先與秩序優(yōu)先的分歧,不但不應成為中西文明交流的障礙,反應成為中西文明交流對話(huà)的基礎。一方面,技術(shù)發(fā)展進(jìn)入爆炸式創(chuàng )新的前夜,讓我們深刻認識到自由帶來(lái)的創(chuàng )造力;另一方面,非傳統安全危機頻繁爆發(fā),也讓我們重新認識到秩序的寶貴。對于自由來(lái)說(shuō),要探討如何加強秩序,以防止瓦解;對于秩序 來(lái)說(shuō),要探討如何加強自由,以激發(fā)創(chuàng )新。問(wèn)題不是在自由和秩序中二選一,而是在哪個(gè)環(huán)節加強自由,在哪個(gè)環(huán)節加強秩序。

              過(guò)去,驗證一個(gè)理念,甚至需要數百年時(shí)間,數代人去重復錯誤。而今天,在技術(shù)革命下,幾年之間就能看清來(lái)龍去脈。唯有懂得反省反思、不斷包容、和諧共生、互鑒互融的文明,才是真正可持續發(fā)展的文明。為此,中國與歐洲真應該坐下來(lái)好好談?wù)勑摹?/p>

              (6) ギリシャ帝國の滅亡とその教訓

              アリストテレスの死後、アレクサンドロス大王の帝國は內部から分裂し、三大継承王國は互いに征伐し合い、分裂しては獨立することを繰り返した。これはアレクサンドロス大王が早くに他界したからではない。彼は生前、一部のユーラシア上層部の通婚を推進(jìn)したほか、征服された巨大帝國に対する內部の政治的統合も、末端行政機関の構築も行わなかった。

              マケドニア帝國の拡張方式は、行く先々でギリシャ式の自治都市を築くことだった。このような「自治」はそこに留まるギリシャ人入植者に対するもので、征服された先住民社會(huì )は含まれていなかった。新しいアジアの都市を征服するたびに、アレクサンドロスは自分の「王友」を當該都市の総督として派遣したが、軍事や稅務(wù)だけを扱い、行政事務(wù)は管理しなかった。

              中國の戦國における末端行政機関の構築方式は全く異なった。出土された秦の簡(jiǎn)によると、秦が勢力範囲を拡大するたびに、その場(chǎng)所に県から郷までの末端行政機関を樹(shù)立していた。各県?郷の官吏は土地の開(kāi)拓の組織、戸籍の集計、稅の徴収、物産の記録を行い、これらの情報を秦都咸陽(yáng)に送り冊子を作成して保存するまでの全ての行政事務(wù)を処理しなければならなかった。また秦の官吏は一か所に長(cháng)く留ることなく、數年ごとに交代した。

              金銭と稅金だけを取り、不服なら軍隊を派遣して鎮圧する。一時(shí)的には最小の行政コストで最大の富を得ることができるが、地域社會(huì )への長(cháng)期的な統合は斷念されてしまう。中央が強い時(shí)期はともかく、中央権力が衰えると遠心力が生じ、都市はみな統制から離脫してしまう。アレクサンドロス大王の帝國の解體は必然だった。

              これをアレクサンドロスのせいにしてはいけない。彼の師であるアリストテレスでさえ超大規模な政治體の論理的制度を想定したことがなかったからだ。彼の「絶対王権」という概念は、だた都市國家の視點(diǎn)だけにとどまっていた。その時(shí)代に研究できる超大規模な政治體がないわけではななかった。例えばエジプトやペルシアがそうであった。しかし、アリストテレスはこれらが「非政治的」であり、先進(jìn)的ではないもので、ギリシャポリスの政治だけが「政治」と呼べると考えていた。

              後世の人々は、政治的実體としてのギリシャ統一國家は消えたものの、文化精神としてのギリシャはローマの國土で永遠に存続し、ヨーロッパ精神の母體になったと弁解している。國が滅びることは構わない,文化が永続できれば十分である。

              これに関しては當時(shí)のギリシャ人の話(huà)を聞くべきである。ギリシャポリスの崩壊の過(guò)程で、多くのギリシャの知識人が人質(zhì)に取られ、ローマの貴族の家庭に教師として送られた。その中には有名な歴史學(xué)者のポリビウスもいた。彼は名著(zhù)「歴史」の中で、「なぜギリシャは崩壊したのに、ローマはずっと強大だったのか」と質(zhì)問(wèn)した。當時(shí)彼が望んでいたのは、おそらく精神だけが殘っているギリシャではなく、実體と精神が共存するギリシャであっただろう。

              「自由優(yōu)先」か「秩序優(yōu)先」か

              この數名の思想家の運命は、全ての文明の內部と全ての精神の追求はいずれも巨大な矛盾を含んでいることを示している。人間社會(huì )の発展のプロセスの中には、全てを解釈できる理論は存在しないし、普遍的な絶対原則も存在しない。ユートピアを構築するのではなく、現実の世界を変えることに専念する全ての思想家は、いずれは自己矛盾に陥り、相反しながらもお互いを成立させる痛みを抱えることになる。しかし、その苦痛と矛盾には相互に補い合って成し遂げる未來(lái)も育まれている。どんな絶対的なものにも屈しない勇気やず、不可能なところで可能を作り出す勇気を持たなければならない。

              現在の東西文明の概念における最大の葛藤は、「自由優(yōu)先」か「秩序優(yōu)先」かである。これはそれぞれギリシャ文明と中華文明の核心的価値観である。

              ギリシャ人の自由を愛(ài)する気持ちは、「ギリシャ人」という人種の名前を「知恵」の代名詞に変えた。中國人の秩序を愛(ài)する気持ち、中華文明を唯一の同根かつ同文であり、國家の形で現在まで続く文明にした。

              秩序優(yōu)先がもたらす安定、自由優(yōu)先がもたらす革新、より追求する価値があるのはどちらなのか?これは哲學(xué)、政治學(xué)、宗教學(xué)、倫理學(xué)を網(wǎng)羅した果てしない論爭になる。斷定する必要はない。これらの違いを殘しておくこと自體が、今後の文明の相互學(xué)習と相互融合の可能性を作り出すことになる。多元性と矛盾が共存することは、人類(lèi)文明の遺伝子プールにより多くの種子を殘すだろう。自由優(yōu)先と秩序優(yōu)先に関する意見(jiàn)の不一致は、中西文明交流の壁にならないだけではなく、反対に中西文明交流の対話(huà)の基礎になるべきである。一方では、技術(shù)発展が爆発的な革新を始める前に、我々は自由がもたらす創(chuàng )造力を深く認識した。もう一方では、非伝統的な安全の危機が頻繁に発生することから、我々は秩序の大切さを改めて認識した。自由の面では、いかに秩序を強化し、崩壊を防ぐかを検討しなければならない。秩序の面では、どのように自由を強化し、革新を促進(jìn)するかを検討しなければならない。問(wèn)題は、自由と秩序の二者択一ではなく、どのプロセスで自由を加えるべきで、どのプロセスで秩序を強化するべきかということだ。

              これまで、一つの理念を検証するには、數世代が數百年もかけて試行錯誤を繰り返す必要があった。しかし、今は技術(shù)革命の下で、何年かの間で物事の経緯のすべてを見(jiàn)極められる。反省?再考し、常に受け入れ、調和共生し、相互學(xué)習?相互融合のできる文明こそが、真の持続可能な発展の文明である。そのため、中國とヨーロッパは実際に腰を下ろし話(huà)し合うべきだ。

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